30を何年か過ぎると、結婚式よりもお葬式に列席することが増えてくる。
去年から今年にかけて、高校時代の同級生のお父さんがたて続けに亡くなった。
先月そのお通夜に参列した。
葬斎場の入り口には、友達のお父さんの生前愛用した品や写真が並んでいた。
その中に私も出席した友達の結婚式で、花嫁に涙を拭われる故人の姿があった。
その幸せな一幕を思い出し、急に悲しみが胸をついた。
父親を亡くした二人の友達にはそれぞれ、まだ祖父の死が分からないくらいの小さな娘がいる。
幼い子は暗い斎場の雰囲気とは無関係に、明るい笑顔を参列者たちに振りまいていた。
友達のお父さんは亡くなったが、その命がたしかに引き継がれているのを見ると、
なんだか救われる気がした。
その光景は、始まりと終わりが不可分であることを象徴的に示していた。
平均寿命が延びて、「親が死ぬ」ということを意識せずに成人期を過ごせる私たちは、
命をつなぐことの重みを切迫して感じることがなくなった。
だから今、現に引き継いでいる命を次につなげるかどうかも、個人の選択の範疇にあるかのように思いがちだ。
でも本当にそうだろうか。
この命は誰かが愛してやまなかった誰かの命のかけらと想いのかたまりだ。
親は自分が、文字通り心血を注いできた我が子が人様に認められ、選ばれて特別な人になる時に、
自分達のしてきたことが間違いではなかったことを知る。
子供は親になった時に、自分が親にどれだけ苦労をかけ、愛情をかけられてきたかを知る。
我が子がそれを知った時に、親は長い苦労が報われる。のだと思う。
親孝行とはそのことではないか。
(我が家では奇しくも兄妹の中で「孝」の字を頂いた二人が実家に居座る不孝者だが…)
円や線のような直接的な形ではなく、螺旋のような親への恩返しを、人は脈々と続けてきた。
それを途絶えさせることは選択するものなのだろうか。
命には限りがある。
命の襷をつなげる時間にも限りがある。
さらにその時間内に、求める相手と思いが重なる時間となれば、奇跡的に僅かかもしれない。
今もこうして砂のように滑り落ちていく時間を、どう生きよう。
ひとつの命の終わりは、戻りこそしないけれどめぐる螺旋をつなぐことの重みを、
自分がその断端であることを、気づかせてくれる。
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