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人は必ず「死ぬ」ということ。

 

10月6日の嵐の夜。

私の叔父さんが70歳で亡くなりました。

家庭の事情で疎遠になっていたため、突然の報せに驚きながら、

最期のあいさつをしに、叔父さんの家に向かいました。

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10月8日。

叔父さんが天に昇る日の朝焼けは、黄金に光っていて、

とっても綺麗で美しく、思わず、写真を撮った。

 

死ぬなんて想像できなかった。私は叔父さんの元気な姿しか知らない。

お酒をたくさん飲み、ガハハと笑い、明るく、おもしろい叔父さん。

私が小さいときには、いっしょに遊んでもらいました。

 

その叔父さんが、13年も前から、間質性肺炎という難病にかかっていたなんて、初めて知ったのでした。

 

肺の病気は、気圧の影響を受けやすく、

台風の夜に苦しみ、その夜を越えられなかったんだそう。

 

病院を翌日に退院するのを控えていたのに、それが叶わなかった。

 

大好きなお酒をやめてからは甘党になり、

退院したらおはぎを食べることを楽しみにしていたんだそう。

 

そのおはぎをもらってきたのだけれど、なかなか私は食べれずにいます。

腐ってしまう前に食べなきゃいけないのだけれど、のどを通すのが、苦しい。

 

難病であることを告げられてからも、叔父さんは旅をしたり、

短歌を読んだり、絵を描いたり。

豊かに生きていたことを知りました。

 

いろんな感情を短歌にしていました。ことばは人を救うんだなぁと思った。

ことばにすることもできない感情を混ぜながら描いたであろう絵は、

心がこもっていた。とっても上手だった。ていねいに描かれたことが伝わる、あたたかい絵。

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愛犬のJOY。

病気であることを告げられてから、奥さんが寂しくならないように、飼いはじめた。とってもいいこ。

JOYの絵も、たくさんあった。

 

最近書かれたノートには、

苦しくて短歌も綴ることができない様子が伺え、私も苦しくなりました。

けれど、そんな苦しいときも、奥さんや愛犬、子どもに支えられながら、

最期まで過ごした人生。

 

最近こそ、疎遠になっていたけれど、

けれど、確かに私の人生の一部には叔父さんが居て。

 

難病だったため、「いつか死ぬこと」を明確に意識していた叔父さんは、

葬儀のときの詳しいことや、最期のときに伝えるメッセージまで残していました。

自分の入る骨壺と愛犬の骨壺も自分で陶芸でつくりあげていました。

 

年をとってからもパソコン教室に通い、ブログを書いていたんだそう。

死生観について書くことも多く、

「俺が死んだら、向こうから何か合図を送る。」と言っていたと言います。

 

葬儀の最中、叔父さんを囲ってみんなで話しているとき、

飾っていたお花が、ピン!と動きました。

これを見ていたのは、私といとこ、2人だけ。

 

私は、これは叔父さんからの合図だと思いました。いとこも、そう思ったと言っていました。

白いユリの花が、風もない、物も落ちてきていないのに、ピン!と揺れたのです。

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叔父さんの家の庭になっていた青ゆずと、ポポーの実。

ゆず酒にして、みんなで飲もうか。

 

最期のときまで、残された人のことを想い、

自分らしく生き抜いた、生ききったその姿を、最期の会に呼んでいただいたことで知れました。

その姿勢に学びや気づきをいただきました。

最期に、会えてよかった。

 

難病を告げられてから、エジプトへ旅をしに行ったときの記録を、

短歌と文章で残し、冊子をつくっていました。

冊子をもらい、読みました。

その中で心に響いた短歌を2つ。

 

・死してなお 生きたしとする ミイラの唇(くち)は 愛する人の 名を呼ぶのか

・古代より 今、今、今が繋がりし 石柱の上 雲は流れる

 

私も「今は今しかない。今の積み重ねに未来がある。」

と、いつも思っていました。

 

私の中にある叔父さんとの縁を感じながら、私は生きていきます。

 

叔父さんはこの世からいなくなってしまった。

これからは、「叔父さんのいない世界」のはじまり。

 

ひろみ